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脳腫瘍
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@体調不良・・・
26歳になったころから徐々に体調が悪くなりました(体がしんどい)。
普通に椅子に座ってPC作業することさえ辛くなり、
たまにトイレで休憩したりしていました。
よく行方不明になるヤツと思われたかもしれません。
不調なのは、当時は仕事が非常に忙しく、そのためかと思っていました。
また、頭痛もひどかったのですが、市販の頭痛薬で治まっていたので、
自分はただの頭痛持ちなのだろうと思っていました。
でも、そうこうしているうちに、吐き気が伴うようになり、
しまいには水を飲んでも吐いてしまう始末で、
「食べ物はともかく、水もとれないと死んでしまう」と思い、
吐くまでの間に少しでも体に吸収されるよう、
スポーツドリンクを飲んだりしていました。
どう考えてもしんどすぎる。何か病気に違いないと思って、
自宅から近い県立三室病院(現在は奈良県西和医療センター)の消化器内科を受診しました。
胃カメラで検査して頂いたのですが、
「ポリープがあるけど、グレード1だった。
こんなのはできたり消えたりするものだから気にしなくて良い。
これが吐き気の原因になるはずがないんだけどなぁ?
そんなに吐き気がすると言うなら一応、吐き気止めを出しておきます」
という何だかすっきりしない診断で、その後何回か通いましたが、
まったく症状は改善しませんでした。
足に力が入らずブレーキがしっかり踏めなくて、
病院の出口の交差点に赤信号で突っ込んでしまったこともあります。
大慌てでハンドルを切ってぎりぎりセーフという、
事故寸前の事態でした。びっくりさせてすみません。
>25号線の坂を上がってきた方
A脳腫瘍の診断がくだる
またしばらく日が経って、家族が勤め先から「ただの頭痛は気にしなくて良いが、
吐き気を伴う頭痛は脳の病気が疑われる」という情報を聞いて帰ってきたので、
同じ病院ですが、脳神経外科に初診で入り直して
「頭痛がひどい。吐き気もする」という症状を訴えたところ、
MRで2週間後に検査することになりました。
先生は、この病院に導入されたばかりのMRを使えることが、
とてもうれしそうでした。(失礼)
ものすごい最新鋭の機械のように聞いていましたが、
その後、天理よろづ相談所病院に行ったら4台もあって、
しかも外来で予約しても最低6ヶ月待ちという事が分かり、
たった2週間ですぐ検査してもらえたのはラッキーでした。
2週間して検査当日、検査は脳神経外科の先生ではなく、
放射線科の先生が実施します。
MRはCTよりずっと鮮明に写りますが、
放射線を使わず無害です。
この検査を受けた方はご存知だと思いますが、
ガンガンガンガン、ゴッゴッと工事現場のような大きな音がします。
私はいつもこの音を聞くとすぐに眠くなってしまいます。
多分、起きていた方がいいんだと思われますが、無理。
検査後、技師さんに「どうでしたか?正常でしたか?」と質問したら、
「異常が見つかりました」と言うので、詳細を聞きたかったのですが、
異常の内容は教えてもらえず、
「担当の先生に聞いてください」
とのこと。
後日、脳外(のうげ。脳神経外科の略)で結果説明の予約があり、
一人で結果を聞きに行きました。
「放射線科の先生に聞いたら異常があると言われましたが、
どんな異常ですか」
と質問したら、
「え、もう結果を聞いてるんですか?(聞いてない)
家族を呼んでもらって家族だけに説明する積もりだったのに、
聞いてしまったのなら仕方ない。言うわ。」
ということで、脳腫瘍でありすぐに手術する必要があることを説明されました。
おいおい、もし放科(ほうか。放射線科の略)の先生に聞いてなかったら、
自分には内緒にする積もりやったんかーい。危なかったぞ。
さらに、手術の曜日や奈良県立医大から応援の先生が来ることなど、
どんどん話をするものだから、「ちょっと待ってください!」と言って、
とりあえず考えさせてもらうことにしました。
久しぶりに手術ができるのがとっても楽しみ!というのが感じられて、
ちょっと怖すぎました。小さい病院なので、
手術の頻度も月に1回レベルのようだし、
家族と相談したところ、
「毎週何件も脳外の手術をこなしている天理よろづ相談所病院の方が安心」
という結論になり、遠慮することにしました。
後日それを伝えに行った所、すんなり紹介状を書いてくれました。
また、MRのフィルムも貸してくれました。案外、いい先生やん。
B天理よろづ相談所病院に入院
借りたフィルムと紹介状を持って天理よろづ相談所病院に行きました。
変な病院名ですが、天理よろづ相談所はその名の通り何でも相談でき、
事情部、身上部、世話部があります。
事情部は例えば、亭主がサラ金を借りてギャンブルするので困ってますぅ等、
相談できます。身上部は病の相談で、すなわち病院のこと。
世話部はよく知りませんが、多分、相談者に対する支援部隊のことだと思います。
この病院は、吉本興業の芸人が入院することでも、一部で有名です。
当時、病院の向かいに「あへあへ」という、
喫茶・軽食ができる間寛平の店もありました。
本人はいませんが、一日中、本人が出演しているビデオが流れていました。
とても人気のある病院ですが、
たまたまベッドが空いているとのことで、すぐに入院できました。
1996年9月の下旬のことです。そして
「何でこんなになるまで放っておいたんだ!死ぬぞ!」と怒られました。
一応、頭痛薬で治まってたし、三室病院でなかなか見つけてもらえなかったし、
・・・と心の中で反論。
6人部屋に入院することになりました。
患者はだいたい天理教の信者の方(私はただの奈良県民)なので、
最初からみなさん仲良しで、私にもフレンドリーに接していただきました。
カーテンもみなさん全開です。
コロナになった今となっては、まったく考えられない光景です。(汗)
TVは各自自分の家から持ってきて、
壁のアンテナのコネクタに自分で配線します。カードもないので見放題。
そんなわけでTVはそれぞれのベッドでも見られるのですが、
いつも一人だけがTVをつけて、それを部屋のみんな(−1名※)が集まって
わいわい言いながら見ていました。
苦労して配線作業したのは何だったのでしょう?
なお、前記の1名※については別にのけ者にする積もりはなかったのですが、
3回脳の手術をされて、完全に壊れてしまっていて、
会話が成り立たない状態でした。私はコンタクトレンズをしていて、
白いレンズケースを枕元に置いていたのですが、
それがどうしてもタバコ(の紙箱)に見えるらしくて、
「タバコくれ」「タバコちゃいます」・・・・×約10回ループ(汗)。
最後はあきらめて下さったのですが、それでも
「タバコに見えるんやけどなぁ・・・」とレンズケースを色んな方向から眺めていました。
そもそも病院でタバコ吸ったらダメでしょう。いったい何を言ってるんだ。
絶対に再発はしたくないと思いました。脳腫瘍の治療は、手術で除去した後、
放射線で焼く、ということになると思いますが、何と放射線治療は、
一生で一回しかできないそうなのです。一回目、放射線治療をしたにもかかわらず再発して、
二回目は手術のみで放射線治療できないとなったら、
じきに再発して三回目になるのが目に見えています。
私の入院中、四回手術した人は誰もいませんでした。チーン。
毎朝、黒いはっぴを着たひのきしん(ボランティア)の方が、
部屋の掃除に来てくれます。週一とかではなく毎朝です。
掃除をする間、体を動かせる人は、
部屋の外に出なければなりません。
毎日きれいにして下さるのはありがたいのですが・・・。
それで、部屋を追い出された人が待合室や廊下に集まるのですが、
私の入院している病室がある6階は、病室のあるフロアとしては最上階で、
脳神経外科のほかに、心臓外科がありました。
「おれらって天国に一番近いフロアやなぁ」「ほんまやなぁ」とか話をしていました。
ただ、脳外(のうげ)はしっかり味のついたおいしい病院食でしたが、
心臓外科は違うらしく、心臓の方はかわいそうだなぁ、と思っていました。
脳外では時々、お造りも出ました。ごちそうだ!
脳腫瘍は痛みを感じる脳自身がやられているので、そんなに苦しい病気ではないし、
普通の癌とかの方に較べたら、致命的なことについては差がないかもしれませんが
病の苦しみのことでは圧倒的にヌルい病かと思います。
それに脳腫瘍は転移もほとんどないそうで、助かりました。
掃除のほかは、天理教の(多分)えらい先生が、毎日お授け(おまじない)をしに来ます。
部屋には毎日来られますが、西洋医学でまだ望みがある人(私とか。ゴメンナサイ)には、
週に1回くらいで、前記の三回目の方は毎日やってもらっていました。
西洋医学的に望み薄でも、下手に自然療法?とか免疫療法?とか大金を使うことなく、
宗教パワー(無料)で助かる可能性があることは素晴らしいことだと思います。
そして週に1回だけですが、部長回診があります。部長が先頭に立って、
先生方がぞろぞろついていくアレです。
大した事を部長先生から聞かれるわけでもないし、
別に患者の側が緊張する必要などないのですが、
その日の私はいつも朝からどよーんとしていました。
日中は、マネージャーみたいな看護士さんが付いてくださって、
毎日病院中駆けずり回って色んな検査をしました。
会社にいるときより忙しかったと思います。毎日残業(?)しました。
先生は同じところに座って次々と患者を診ればよいのでしょうが、
患者の方は各先生のおられる場所まで、
予約時間に間に合うように行かないといけないので大変です。
いつも走っていました。
おまたの内側(そけい部と言うそうです)から管を入れ、
(どうやって中をかき分けていくのか不明ですが)それを頭まで送り込んで、
脳の血管を撮影する検査もありました。
その検査前に、そけい部をすべて剃っておく必要があるのですが、
最初、そけい部の意味が分からなかったので、どこですか? と聞いたら、
ある看護士さんがまたを開いてビートたけしのコマネチの振り付けをして教えてくれました。
んー、若いのに女捨ててる。(でもかわいい)
看護士さん数人が「私が剃ってあげる。遠慮しないでね」「いやいや私が剃ってあげる」と、
みなさん遠慮するなと言ってくださるのですが、さすがに恥ずかしいので自分で剃りました。
単なる視力検査や握力検査もします。術後に落ちてないか見るためです。
握力検査では、力自慢の看護士さんがいて「私と勝負だ!」と挑まれましたが、
握力は私も強い方という自負があったので何とか勝ちました。
普通にMRも撮りました。その他、検査は丸一週間続きました。
検査とは違いますが、手術の承諾書を書くのもありました。
ざっくり言えば「手術で死んでも文句言いません」的な内容です。
死んでからどうやって文句を言うのか不明ですが、出しました。また、
手術の方針についても質問があり「頭蓋骨のちょうど中央に腫瘍がある。
正常な脳を切り開いて取り出すしかない。どこから開けても取れるけど、
前から開けるのが一番障害が残りにくいと言われている。
どうする〜??」って「前からお願いします」以外の答えがあるのか?
夕方、7階に大部屋があり、毎日信者の方に連れられて「おつとめ」をしに行きました。
最初にえらい天理教の先生の方が来て講話をして、
その後、皆さん種を撒くような振り付け等々の踊りをしながら歌っていました。
もっとも私はちょっと覚え切れなかったので、はたで眺めているだけでした。
一番基本形の「お授け」の手踊りだけは覚えました。
これを覚えないことには教会でお祈りすることもできません。
お寺で手を合わせて祈ると思いますが、
手を合わせる代わりに手踊りするということです。
病院内のあちこちに教祖のお言葉が貼ってあって、
「人間はみなみな神の貸しもんや。何を思うて使うているやら」(ちょっと違ってるかも)
とか読んで、ほんまやなぁ。病気になることも自分ではどうすることもできないし、
借り物に欠陥品とか文句を言ってもしょうがない。
ただ貸し与えられた物を精一杯有効に使って陽気ぐらししていくしかないのだなぁ、
とか、うっかり天理教にハマりそうになりました。
でも、信者の方からシステムを聞いているうちに、
だんだん「なんだかなぁ」と冷めてしまいました。
例えば、朝の掃除をしてくださるひのきしんの方が着ている黒いはっぴには、
確か「修養科」と書いてあったと思います。
天理教の信者になるためには1年間毎月、
寄付金を払って「別席を運ぶ」(先生の講話を聞くことか?)必要があるようなのですが、
修養科(天理教施設に寝泊りしてボランティア活動をする)に入れば、
無料で3ヶ月で同じ資格が得られるそうです。
何というか現金と言うか分かりやすいと言うか・・・(汗)
別席を運ぶ通常ルートの場合、どこでやってもいいのですが、
大教会、教会、分教会、布教所で全然必要な金額が違うらしくて、
下になるほど上納金(?)のようなものが必要になるそうで、
大教会でやらないとずいぶん損らしいです。
「斑鳩にも大教会あるやろ?」「あったと思う」・・・てか、
そのシステムってどうよ。萎えた。
私が入院した頃のよろず相談所病院は写真の建物で、
隣りには似たような形の建物で「南海詰所※」があり、
さらにその隣りに「おやさと高校」
(だったか??かの有名な天理高校ではなかった)がありました。
屋根が独特でいかにも天理教です。入院中に私が聞いていたのは、
最終的にこの様式の建物をどんどん増やし、
全部つなげて本殿を取り囲むんだと言っていました。
でも、その後、普通のビルの形の外来棟や入院棟がどんどん建設され、
場所も建物を連結できない離れた場所だったので、
なんだ、やる気はないんだな、と悟りました。
しまいにゃ元のこの建物までつぶすそうです。なんてこったい。
お風呂も大風呂で曜日は決まってたけど、時間はフリーでした。
他科の患者さんとの病気話も楽しく、とてもよかったんですが、
きっと新病棟では普通に狭いユニット風呂なのでしょう。(T_T)
※詰所(つめしょ)は天理教の施設ではなく、
あくまでも南海地域(和歌山か?)の信者がお金を出して建てた、
天理に来た時に泊まるための宿泊施設です。南海詰所のほかにも何十棟もある。
そしてそれぞれのエリアの信者しか利用できない。
詰所によってはまるでホテルのようにきれいで大きくてゴージャスなものもあり、
詰所を持ってない地域の信者が天理に来た時に貸したりしているそうです。
春と秋の26日に大きな集会があり、たくさんの人が集まる。
それと、毎月26日もなんかあるみたいで、
近鉄電車が天理に直行の臨時急行を出しています。
露店も出てエリア一体がお祭り気分に包まれます。
こういうのを「おぢばがえり」というのかな? ちなみに「ぢば」は地場です。
聖地に帰るというような意味かと。
子供の頃は夏は縁日や無料プールで遊んだりしました。
C手術
入院して1週間バタバタと体中を検査した結果、特に問題はなく、
手術は予定通り実施することになりました。
手術の朝、幅50cmくらいの細長いベッドが私のベッドに横付けされ、
看護士さん3人で私を載せ替えてくれました。
47kgまで体重が落ちていたので楽勝です。
「軽!」と言われてしまいました。
部屋のみんなから「生きて帰って来いよ〜」「頑張れよ〜」と励まされながら、
そのままベッドに乗って手術室まで移動。
手術室に入る手前の部屋で天理教の先生が待機していて、
手術が無事終わるよう(多分)、お祈りをしてくれました。
手術室に入室。また例によって3人でベッドから手術台に私の載せ替え。
先生が挨拶してくださった後、マスクをつけたら意識がなくなりました。
9:00手術スタート。16:30手術終了。
目が覚めて、眠いのでまた寝ようとしたら、
「寝たらダメだ!一生寝たままになるぞ!」と先生に言われ、
頑張って起きてましたが、今度は天理教の先生が待機していて、
こちらは麻酔覚めたてでヘロヘロ状態なのに、
「ちょっと今は無理」と手で振り払おうとしたら、
親も来ていて「わざわざ来てくださってるのに何するんだ」と怒られて、
おまじないをされることになりました。
全然記憶にないのですが、麻酔から覚めた時に吐いたらしくて、
その始末も大変だったようです。
その後、ICUに移動されました。
ICUの最初の2日間はほとんど寝てました。
特に痛みもなく爆睡でした。
たまに起きて、体中管だらけでまだICUにいることを確認して、
また寝る、の繰り返し。でもさすがに丸2日寝ると、
連続して起きていられるようになりました。
3日目の朝、少しおなかがすきましたが、
ちょうど食事開始日だったようで、グッドタイミング。
その日、看護士さんから2人部屋に移動すると告げられました。
6人部屋を出るとき「早く戻って来いよ〜」と言われていたので、
早く大部屋に戻りたかったのですが、体中管だらけですし、
なかなかそうもいきません。
「部屋が空いてないので女性と同室でもいいですか?」
と聞かれ、問題ないと回答したので早速移動。
D二人部屋に移動
2人部屋に入ると、奥のベッドに40を少し過ぎた女性が寝ていました。
簡単に挨拶した後、主にTVを見て過ごしました。
食事のとき、こちらは日に日に体調が良くなるので
がんがん食べますが、相方はまったく食が進まず、
いつもほとんど残してしまいます。
それで「しっかり食べないと直るものも直らないですよ。
頑張って食べてください!」と言うのですが、
彼女からは「私もう死ぬねん。」とか後ろ向きなことばかりです。
私には、ほぼ見舞いは来ないのですが、
彼女には高校生の娘がいて、だいたい毎日見舞いに来ていました。
机の上には手の付けられていない差し入れの食べ物がてんこもりです。
「早く直して家に帰らないと、ご家族のみなさんも悲しみますよ。」
とも声をかけてみるのですが、
彼女からは「私もう死ぬねん。」「直らへんねん」の一点張りです。
その後は、後から二人部屋に入った私のほうが先におしっこの管が抜け、
点滴の台(トイレにも押して歩けるようになっている)に
下がっている点滴の数も減っていき、彼女を二人部屋に残したまま、
私は先に大部屋に戻ることになりました。
退院してしばらく経ったある日、
ほとんど顔も見なかったご主人から手紙が届き、
読んでみると「残念ですが亡くなりました。
入院中は妻にとてもよくしてくれて、ありがとう」と。(T_T)
これだけを読むと私の方は順調そのものに見えますが、
実はいろいろ心配なこともありました。
術後、私の血中のステロイド成分がほとんどなくなったらしくて、
飲まないと死ぬと言われ、ステロイドの飲み薬を飲んでいましたが、
1週間くらいで自前のステロイドが出ているからもう大丈夫ということで、
その薬がなくなりました。飲まないと死ぬと言われていたので
薬をやめるのはちょっと不安だったのですが、
「ずっと飲んでいてもいい薬ではない」とのことでなくなりました。
お医者さんの言うとおり、その後も死にませんでした。やれやれ。
それから、脳の手術をした後は、頭蓋骨を完全にふさぐことはせず、
直径5mmくらいの穴を残しておくようです。
そこに透明なチューブが刺さっていて頭の中の余計な水を抜くようになっていました。
水が出続けるようならおなかに水を戻す穴を増設すると言われましたが、
何とか水が止まったのでおなかに穴を開けることなくその管は取れました。やれやれ。
大部屋に戻ったら、普通に頭に管がついたままの方とか、
ステロイドを飲みすぎて顔がまんまるの方とかいらっしゃって、
明日は我が身でした(当時)。
E放射線治療
大部屋に戻った後は、ほとんど検査もなく、
とてもヒマな日々を送っていました。
戻った大部屋は、出るときとは違う部屋だったので、
誰も知っている人がいませんでした。
隣りに中学生の子がいましたが、ラジカセやゲームを持ち込んでいて、
人と話すより、一人で楽しんでいる子でした。
ヒマなので母が見舞いに来た時に売店で買ってきた、
村上春樹の「ノルウェイの森」を読んだりしてました。
読んだ方はご存知でしょうが、あまり病人が読む本ではない。
それはともかく、見え方がおかしくなっていることに気づきました。
改めて辺りを見ると、今までざらついた材質だと思っていたものが、
触ってみると本当はツルツルしているのです。
さらに見え方を分析していくと、
横線はまっすぐに見えているのですが、縦線がガタガタに見えているのです。
視力検査がありましたが、Cの向きを答えるだけなので、
Cの線がなめらかでないことは、問題にならないのです。
結局「手術前と較べ視力は落ちていない。手術は大成功!よかったねぇ!」
と言われるのですが、私は何も言えず、ただ黙っていました。
当時、少しヘコんでいましたが、徐々にガタガタの程度が小さくなり、
今では、よほど疲れたときしかガタガタに見えることはありません。
ありがとうございます。
また、手術で取り出した腫瘍が理科室にあるような、
円筒形のガラスの容器に入れられたのを、見せてくれました。
何回もMRで見ていたものが実物となって目の前に現れただけですが、
色までは分かりませんでしたので・・・
何か腫瘍の肉片に黄色の透明なあわあわの大きな塊がくっついていて、
外から入る明かりでそれが黄色にキラキラ光ってなんだかキレイでした。
でも「あげへん」と言われてしまいました。(別にいらんけど)
それから、手術の時に使った硬膜の説明がありました。
当時、発症の約10年前に脳の手術を受けた人の中でヤコブ病が多発していて、
今回手術した穴をふさぐのに使った硬膜も、
同じドイツ製(ライオデュラ)のものということでした。
この製品は、人間の死体の脳から取り出した硬膜を乾燥させたものです。
それだけなら問題ないのですが、硬膜を移植された人が死亡したときに、
また硬膜が取り出され、と繰り返している(ループ完成)うちに、
プリオンという異常蛋白ができてくるのです。
脳の手術を受け、プリオン入りの硬膜を移植された人は、
10年経ったらヤコブ病になってしまうのです。
しかもこの会社は硬膜を消毒するときに10枚まとめて消毒液に浸けており、
その中に1枚でもプリオン入り硬膜が混じったら10枚ともダメになるのです。
同じ病気の牛バージョンが狂牛病で、
肉牛が死んで肉を取った後の骨・神経を乾燥させて、
肉骨粉というエサとしてまた別の肉牛に与える(ループ完成)うちに、
プリオンが混じったエサになります。それを食べた牛は神経を病んで
自分で立てなくなってしまいます。さらにその死んだ牛の肉を食べた人間も、
ヤコブ病にかかってしまいます。というわけで、
アメリカ産の牛肉の輸入がストップしたり当時は大騒ぎでした。
私の場合、ちょうど人工硬膜への切り替えの最中で、
ぎりぎり間に合わなかったそうです。
もしヤコブ病を発症したら、あっという間に認知症の症状が進み、
だいたい3ヶ月で死亡してしまいます。
退院してからもかなりビビってましたが、ライオデュラ社は騒ぎになる前から、
内部でこの問題のことを把握していて、こっそり硬膜の消毒方法を変えていたのです。
その当時は、多発していたのですが、その後は、
同製品を移植されたのに発症しない人が大半となり、私も何とか助かりました。
しかし、今でも硬膜の移植を受けた人は献血ができません。何だかさびしい。
その後、放射線治療が始まりました。
最初に機械で測りながら、
おでこに放射線を当てるときに目印にするシールを貼ります。
顔を洗うときに取れないように気を付けるよう言われました。
最初の1週間くらいはいいのですが、
洗えないのでどうしてもかゆくなってしまいます。顔の油と汗で
少しズレてしまって、先生が「触らないように言っただろう!
ズレたところに照射することになるんだぞ!」
と怒りながらひっぺがしてマジックで(適当に)かき直したのですが、
もともとのコンセプトに無理があると思う・・・
治療は寝た状態でMRのような機械に入り、毎日15分ほど照射するだけです。
ただ、放射線の機械にNECのエンブレムがついていたのですが、
字体が
ではなく、
でした。(汗) 全体に機械の色が黄ばんでいるし、
昭和(それも40年代)の香りがプンプンします。
「えー? この機械で治療されるの? ちょっと嫌だなぁ」
と思いましたが、いまさら他の病院に行くとも言えず。
それと気になったのが、直交二門照射といって
前から長方形の形に照射するのと、
真横から長方形の形に照射するのを毎日入れ替えて治療します。
重なる直方体の部分が治療箇所になります。
患部が直方体のわけはないので、正常箇所もかなり放射線を浴びてしまいます。
重ならない部分もパワー1/2とは言え、
かなりの放射線を浴びてしまうわけで・・・
ガンマナイフ(?)とか、オウム真理教のヘッドギアみたいなのを使って、
もっと患部に集中的に照射する方法があるだろう、とか、
当時はいろいろ思い悩みましたが、現在もこうして再発もせず元気に過ごしてるので、
まぁ、よしとしましょう。
1日の治療はこの15分だけ(準備を入れても30分)だけで、
あとは検査もなくフリーなので、時間が有り余っています。ヒマ。
外泊したときに家からパソコンを持ち込んで、病室でゲームをしてましたが、
それでも、いかにも「飽きた、面白くない」というのが分かっちゃったみたいで、
お医者さんから「何かプログラムを作ったら? 素数を求めるプログラムとか」
と言われたので2、3は、ぱっと見で素数なので、
とりあえず見つけた素数(最初は2と3)を配列に取っておいて、
4以降はそれまでに見つけた素数全部で割ってみて、
割り切れたら素数ではないということにしました。
割り切れたかどうかは商にINTをかぶせてみて、
元の商と一致したら小数点以下はない(割り切れている)ということにしました。
適当なロジックなので多分、桁が多くなると間違うケースが出てくると思いますが、
一応、先生に見せたら、「すごいすごい。本当に素数になってる」
と喜んでいただきました。
放射線治療は丸2ヶ月続きました。
人によっては吐き気などの副作用があるそうですが、
私の場合は頭の前後と左右で長方形に毛が完全に抜けた以外の副作用は何もありませんでした。
手術以降、頭痛はなくなり体調も絶好調ですから、
毎日病院食は「大」を食べ、差し入れのおやつも完食です。
これで太らないはずがありません。入院時47kgだったのに、
あっという間に54kgになってしまいました。
お医者さんからストップがかかってしまいまいました。
今までの検査結果からみて糖尿病になりやすい体質なんだそうで、
退院後も絶対に55kgを超えないようにキツく釘を刺されてしまいました。
ちなみに現在、57kgです。まずいです。
F退院
放射線治療が終了し、退院することになりました。
入院したのが9月の末で退院したのが12月の末ですから、
入院期間だいたい3ヶ月でした。
急に3ヶ月も会社を休んだので、普通だったらクビでもおかしくない所、
使い残した年休が60日まで貯められる会社の制度があったみたいで、
ほとんど欠勤にならずに済み、お給料もちゃんと出ました。
1ヶ月の出勤日がだいたい20日しかないので60日で3ヶ月いけます。
大変ありがとうございます。
この積み立てられた年休は上司が申請してはじめて利用できるようで、
大変ありがとうございます。>辻さん(当時の上司)
さて、その後は3ヵ月ごとにMRを撮って再発してないか検査していました。
私の頭の中は、大きな部分を腫瘍が占めていたので、それを取った後は、
頭の中がスカスカになってしまいました。先生からは、
「正常な部分の脳がもっとふくらんでくると思ったのに、
全然ふくらんで来ないねぇ。ま、取り残した腫瘍がほんの少し小さくなった
からいいんじゃない?」とのことでしたが、
それから20年経ってもやっぱり頭の中がスカスカです。非常に残念です。
検査の間隔は最初3ヶ月おきだったのが6ヶ月おきになり、1年おきになり、
退院から3年くらい経った頃、
いつも診察していただいていた部長先生が退職(転職)することになり、
別の先生が私の担当になって「新しい病院への紹介状を書こうか?」と
言ってくださったのですが、
それまで再発はなかったので、
私はすでに部長先生より長生きする積もりになっており(ふてえヤツである)、
「引き続き、ここで診てほしいです」
と申しまして、そのまま診てもらうことになりました。
退院直後は、ただ桜を見ても「もう今回と次回くらいで終わりかなぁ」とか、
割とおとなしめの考えだったのですが、
だんだん慣れてしまって今では部長先生より長生きどころか、
すっかり自分の寿命まで生きる積もりになっちゃってます。(おいおい・・・)
ちなみに部長先生は副院長兼務のえらい先生でしたが、キリスト教をされていたそうで、
この病院では院長になれないので辞めたとほかの患者から聞きました。
ちょっとソースが怪しいですが、いかにもありそうな話とは思います。
そして、入院から5年が経ち
「もう直ったと考えてもらって構わない。もう検査も必要ないでしょう」
と言われてしまいましたが、
入院中、まったく同じ事を言われたのに再発して入院してきたという大学生がいたので、
「そう言わずに引き続き診てもらえないでしょうか。
カルテを捨てられないためにはどのくらいの頻度で来たらいいですか?」
と聞いたら年に1回とのこと。
その後もずっと年に1回MRを撮ってもらってましたが、
コロナになって病院の方も不要な受診するヤツには厳しく対応するするようになってきたので、
それもなくなってしまいました。今では紹介状を持って初診に行っても、
場合によっては「逆紹介状」を書かれて、もとの病院に返品されちゃうみたいです。
(よろず相談所病院のHPの皮膚科ご参照)
病院に行かなくなってもう何年か経ったので、カルテも捨てられているでしょう。
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